昭和44年04月15日 朝の御理解



 御理解 第84節
 「おごりがましいことをすな。ものは、細うても長う続かねば繁盛でないぞ。細い道でも、しだいに踏み広げて通るのは繁盛じゃ。道に草を生やすようなことをすな。」

 繁盛、繁盛へつながる道。それは一遍に開けると言った様な物。それは繁盛ではないという、細うても長う続き、次第に踏み広げて通るというのが繁盛という風に仰っておられます。「道に草を生やすようなことをすな」と。この辺の所が、難しいと思うですね。一生懸命になって、例えば畑なら畑の草を取ります。もう草一本無い様に取ります綺麗に。けれどもそれを放任しておくと、又いっぱい草が生えます。
 それで又一生懸命になって取ります。又油断をしておると草が生えます。例えばそう言う様な、あの信心ではいけないと言う訳ですね。何時も矢張りうまず絶ゆまず。草を取ると云う事に精進しておかなければならん。そのそう言う風に実はまぁ難しい訳ですけれども、そうしたいよいよ繁盛の踏み広げて通る繁盛の道というのは、どう言う様な事かと、今日は少し見当が違う様ですけれども。
 信心の心得の中にですね、「信心する人は常に守りを心にかけておれよ」と心に掛ける守りは、汚れる事はなきものぞ、とこうあります。「信心する者は常に守りを心にかけておれよ」と。「心にかける守りは、汚れることはなき」と仰っておられる。まぁ普通でいうお守り札さんですね。そのそれは心に掛ける守りは、汚れる事はなきもの、とこう仰るが、心に掛けておらなければ、矢張り汚れてしまうと云う事です。
 心に掛けておらなければ、直ぐに道に草を生やす様な事になると云う事です。私はここんところを、金光様のご信心頂いておる。金光様の信心頂く者は、お守り札なんかない。御神米は、ありゃお守り札じゃない、と言われております。金光様の信心をする者は、心に守りを掛けておるんだと。だから是は汚れないんだと、こう思うておりましたけれども、実はそうじゃないんですね。
 心にかけ通しに掛けておらなければです、矢張り汚れると云う事。心に掛け通しに掛けておらなければ、道に草を生やす様な事になると云う事。繁盛の道も言わば何処が道やら分からん様に、草がぼうぼうと生えたんでは、もう繁盛につながらないと言う所ですよね。金光様のお守りは他所の様に御札やらそんなもんじゃないから。金光様のなら心に掛けておるのだから、もうよう汚れる事もなかなきゃ落とす事もないと。
 例えばそう言う風に私共は思うておったですけれど、そんなもんじゃないんです。心に掛け通しに掛けておらなければ、直ぐ落としたり汚したり、汚したりすると云う事ですから、こりゃ大変難しいですね。例えていうとだからかけ通しにかけておれば楽なん。それはどう云う事かというと心に掛けておると云う事はね、心掛け手おくという事なんですここ。何時も心掛けておる。
 何時も例えば畑に草を生やさない為には、何時も心掛けておくと云う事。私は今2月の末から毎日、久留米に歯の治療に通わせて頂いて、漸くまぁ上だけこんなに出来ましたが、まだ下が是からですから、何時まで通わなんやら、分からん様な感じですけれども、本当にそれを思いますね、朝から晩まで、お広前おりましてね、お神様の前におりましたら、そういう雰囲気の中におりますと、何とはなしに何時も心に掻けておる訳です神様を。ところが、言うならば信心のない世界とでも申しましょうかね。
 信心のない人達との、付き合いとでも申しましょうか。是は本当に、ここで私が何時も、まぁお話をしておる、先生はもう何時も御結界に座っておられたり、ご神前に向こうておられるから、ないけども。実際そのこういう、まぁ混沌たる社会とでも申しましょうかね。まぁ濁った社会とでも申しましょうか。そういう濁った中に出て行くとですね、どうしても教会に居る様な訳にはいけないとこう、確かにそれを感じます。
 それが私がね今の所が気付いてなかった。心に掛ける守りというものは、何時も自分は神様を頂いておる様に思うておってもです、心に掛けていないから、汚れたり汚れたり、するのです。ですから、信心のない人達の、まぁ信心のない世界とでも申しましょうかね。出て行く時には、だからとりわけ心に掛けて居らなければいけないと云う事を感じます。言わば心掛けて居らなければならないという事。
 それは例えば、今朝からこうやってお湿りがあっておりますがね、お湿りの中に出ていきゃ濡れる事は分かっとるです。言わば信心のない世界と信心のある世界、それはおのずと違います。それはお天気の日と、お湿りの日ぐらいな違いますから。そんならそのお湿りの中に出て行くのがです、迂闊にして雨具を持って行かなかったり、致しますから濡れるのであって。いわゆる雨具を持って行く事を忘れん様に心掛けてさえおきゃ、濡れんですむでしょうが、雨の中でも。
 ですから私は、是は本当にこう頂いて見れば見る程、私共は、もう金光様の信心頂いておれば、金光様の信者のお守りというのは心に掛けておるのじゃから。汚れることも落とす事もないんだと、そう言う風に早合点して頂きますと、何時の間にか汚れたり、けがれたり、落としたりしております。ここんところを、心がけとこういうがね、その心に掛けておると云う事。何時も心に掛けて居らなければいけないと云う事。
 教会を一歩外へ出る時に、いかにも雨は降っておらんごとあるけれども、ちゃんと傘を持って帰るのを忘れる。今朝頂いておる、例えば教えを忘れてしまって、家につく頃には、もう漠然、漫然としたものになってしまっておる。と言う様にですね、心に掛けていないから忘れる。今日私は、この84節。言わば細うても長う続くという道、道に草を生やすなと云う事、それはね、もう何時も心掛けておかねばならないと云う事を、この84節には説いてあると思うのです。
ですからそれが自分の身に付いてしまえば、難しい事はない。心に掛け通しに掛けておかなければ、そういう道を踏み広げて通るのが繁盛であると。金光様の信心をしておれば、何時か道が開けて来る。繁盛の道になると、言う様に早合点しちゃならない。心に守りを掛けておれば、心の守りを汚す事もなからなければ落とす「信心する人は常に守りを心にかけておれよ」と。
 「心にかける守りは、汚れるということはなきものぞ」と。心に掛けておる守りを汚さんですむ、言わば雨の中に出て行っても、濡れんで済む為に、私はもう必ず、ははぁ傘は持って出るようだろうかと。心に掛けておかなければ、迂闊にして途中で、言わばお湿りに会うと、もうじゅっくりなってしまわにゃならんという事になります。繁盛の道というのは、細うても長う続かなければ、ほりゃもうやあやあ言う様にしてから、その畑の草を取ってしまう。綺麗になった。
 草一本もないごつなった。そこでやれやれとこう安心すると。はぁ何日か見るまにもう又草が生えておると言う様な信心ではならん。何時も絶えず、心掛けておかなければ、道に草を生やす事になる。道に草を生やしたんでは、道が道やら何処やら分からん様になる。それでは繁盛の道というのを辿る事も、踏み広げる事も出来ない。そこでその繁盛の道というのは、何時も常に自分の心に、守りをかけておる様に、普通のお守りさんだったら忘れとったっちゃよかですね。
 自分の心にこうこうね。何ちいうですか。私は先日ある人の車に便乗させて頂いた。そしたら宗像神社高良神社裕徳さん。もうそれこそ見事にもう金襴の袋に包んだとが、ずらっと下げてある。もうガラスにぴたっとひっつくとがされてある。ほぅこりゃばさらか賑やか、こりゃあわしまさんのごたっじゃんの、というて笑いました。いえ先生金光様んとは上ん方に貼っておりますち言うてから天上に貼っちゃるですもん。
 だからその、貼ってさえおけば、ご利益があるというお守りではない訳です金光様の信心は。もう自動車なら自動車にその、お守りさんがこうやってぶらっとぶら下げてありさえすりゃ、もうそれでよいとじゃないです。自動車に掛けるのじゃない、心に掛けておらなきゃならんの。ハンドル握る時に、だから何時も、金光様。今あるを嬉と思わせて貰うて、いやびする心、お礼を申し上げる心が何時もなからにゃいかん。
 それが金光様のお守りなんです。ですから成程他のそれとは、だから大変わけが違う。心にかける守りは、成程汚れる事はないと言う風に言うておられますから、私共はだから形にはないけれども、心に何時も掛けておる様に思うとるんです。信心しよると。そこに間違いがあるようです。是は心に頂いておるという事は、心に掛け通しに掛けておくと云う事だ、と云う事を、今日皆さんよう分かって頂かにゃいかん。
 心に掛け通しに掛けておくと云う事は、さぁ家を出る時に傘を持って行きよるかと、何時も心に掛けとかなきゃ。迂闊にして傘を持って出ない所に、雨がふりゃ必ず濡れる。濡れなければならない事に成って来るのです。またそう言う様な信心が身に付いて、心に掛けて、掛け通しに掛けておらなければ、道に草を生やす様な結果になる。繁盛の道にはつながらないと言う事を、今日84節からね、この御神訓の、所を今日はつないで御理解頂いた訳ですね。
 道に草を生やす様な事をすなと。道に草を生やす様な事をすると、繁盛の道が何処やら分からん様になって来る。繁盛の道を辿らせて頂こうとするなら、絶えず心に守りを掛けておらなければならない。心に守りを掛けておると言う所に間違い、迂闊にしておる事があるが、心に守りを掛けると云う事は、心に神様をね頂いておるか頂いていないか。出がけに、傘を持って行きよるか、行きよらんかという事を。
 何時も心掛けておかなければならん。だから迂闊と云う事が許されないですね。迂闊にしておってはならない。何時も神様を、いわゆるまぁお供と申しますかね。「心にかける守りは、汚れることはない」というのは、心掛けさせて頂いておく。何時も心掛けさせて頂いておる、例えばお守りならばです、何時も心に掛け通しに掛けておればです、それがどういう信心のない世界に入って行ってもです。
 その心の守りは必ず一段輝かしいお守りである事を体験する事だろうとこう思う。心に掛ける、守りは汚れる事がない。どういう中に入って行っても、いうならば祈りを忘れない。どういう例えば、雨が降っても風が吹いても雪が降ってもそれに、風によって吹き折られる様な事もなからなければ、雨が降っても雪が降っても、濡れる事のないおかげ。どういう中に、汚い中に入って行ってもそこに祈りを忘れない。
 そこにどういう汚い社会にあっても、そこを清める様な働き、そういう働きまでが出来て来る様になる事が、お道の信心の心に掛ける守り、事だと今日は分からせて頂きました。そういう心に掛け通しに掛ける、言わばそういう信心が、道に草を生やす事のない、踏み広げて通る繁盛への道へ繋がると云う事を、皆さんに今日は聞いて頂いた訳ですね。何時もの84節の御理解とはだから。
 今日は大変違いましたですね、意味が。今「心にかける守りは、汚れるということはなきことぞ」と云う事を是につないで頂きますと。心に掛ける守りとは、私共は今まで私自身全然こう云う事であるとは気が付かなかった、けれども心に掛けると言う事は、心がけると云う事だと云う事を、今日は分からせて頂いたんですね。
   どうぞ。